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おい、どら焼き寄越せよ。






喉元過ぎれば熱さを忘れるというけれど、私は飲み込む前に忘れたり、クチャクチャしてる時に何噛んでるか忘れることも多いです。

でも生まれて初めて観たコンサートは覚えてる。

ジャネット・ジャクソン来日公演Rhythm Nation Tourの東京ドーム。

会場の熱気で息が苦しかったこと、爆音で内臓がズキズキしたこと、ジャネットが可愛くて震えたこと、この時小学生だった私の記憶は大人になっても簡単に取り出せるところにあるらしく、今も東京ドームに行くたびに思い出します。

初めて嵐を見たのも東京ドームだった。

ジャネットが実在の人物だと思い知ってから、およそ20年後のことです。

日本のアイドルに疎かった私は、 嵐を知ってから今日までの間にジワジワとジャニーズの人たちを好きになっていきました。

顔が良くて、歌って踊って演じたりもしてるなんてめちゃめちゃすごいのに、でもそれだけじゃこんなに誰かを幸せには出来ないんだってことを、あの人たちは人生を賭けて魅せてくれているんだと学びました。

結果を出さなけりゃ次は無い、知ってもらうのだって簡単じゃないシビアな世界で精一杯キラキラする姿は刹那的で、エモいものは正直苦手だけど、感動せずにはいられない。

応援するのがすごく楽しい。

でも今みたいにどっぷり浸かるまでには、なかなかの遠回りをしたんです。

ジャネットを離乳食に育ち、解散後のUNICORNにハマってm-floで泳ぎ、BRAHMANの下北沢で靴を片っぽ失くすなど一通りのことはして(一通りの定義?)

ある日、道明寺司こと松本潤くんを知ります!

自分が花より男子堕ちだって事実、多分誰にも話したことない気がする。

友達から原作を借りた流れでドラマを見て、回を追うごとに自分が道明寺司を好きなのか松本潤を好きなのかわからなくなるという、沼への王道ルートに足を踏み入れましてね。

めでたく沼の入口を見つけた素人ですが、ジャニーズとは縁遠いところに長く巣食ってたおかげで、そこはあまりにも眩しい未知の世界。

教えを乞う師はおろか、共感してくれる友人すらいません。

ジャニーズってイイよね〜なんて口走ったら最後、ダサいとか狂ったのかなどと言われかねないコミュニティに属してた自分は、沼の入口に簾(透け透け)をかけて知らんぷりを決めこみました。

ここまででジャネットから14〜5年、君と僕の見ている風景まであと5年くらいか。

そうこうしてるうちに忙しくなり、彼らのことはすっかり忘れていました。

元々よく知らないんだし無理もない。

だから想像もしてなかったです、まさか娘が簾を捲るなんて。

一度沼の匂い嗅いでますから、そこからは早かったです。

ファンクラブに入って最初のコンサートまでの間に、入手可能なCD、書籍、映像作品は全て母娘で履修しました(この後遺症により財布の紐は常にガバガバ、果ては妄想物語を書き始めます)

ビギナーズラックで風景コンに当選、T.A.B.O.Oで翔担おねえが爆誕、私はいつの間にか沼の住人になっていました。

オタクとして二足歩行を始めたのが遅かったからなのか、のほほんと楽しんでいる反面、本気で大騒ぎしたり凹んだりするウブさもいまだに持ち合わせてます(この歳でこれは厄介)

NEWSちゃんを全力で推すようになってからはモンペの一面まで出てきちゃって、まっすーはどうして変なスカートみたいの穿いてるの?って聞いてくれたら喜んであれはタカヒサマスダのSSコレクションで〜す♡ってデレデレできるのに、まっすーはどうして変なスカート穿かされてるの?なんて聞かれようものならいっぺんでそいつ大嫌いだし、そこの違いに気付けないなら粘土でも食べとけと思う怖い大人に!

相変わらず周囲の人にはオタクだと言えずに過ごしているけれど、私の毎日はジャニーズと共にあります。

この1年余りの間には4回現場に恵まれて、独りでの野外コンサートもグローブ座最前列デビューも果たしました。

もっと若かった時にやっておくべきだったかもしれないことが、大人になってからの日々をすごく楽しくしてくれてます。

そのことに、あの日買ってもらったジャネットのTシャツを今も大切に着てるオタクは感謝してる。

だけど言わせてくれ。

1月27日に一旦止まった時間は、やがておとずれるその日に向けてノロノロとではあるけど動き出してた。

前向きにはとうとう一度もなれないまま、それでもその日まで全力で走るって嵐が言うから、そうなんだろうって思ってた。

弱くて自意識過剰でメンヘラでクズなニノが好きで、つかなくていい嘘をつかない為の予防線の張り方、嘘が嘘だったと露見した時のことまで考えてるブレない狡猾さを信用してた。

その日まで、全力で、ファンと、走るのかと思ってたんだよ。

コンサートは万年蚊帳の外なファンが唯一、アイドルと作り上げるんだって思える空間で。

だからこそ残された数少ない日の中の、こんな時にわざわざ照準を合わせたなら、それを飲み込まなきゃならないならせめて、何が目的なのか教えてくんないかな。

剥がれた夢の皮をどうしたらいいか、どこを目指して伴走すべきか、フライングでどら焼きの匂いだけ嗅がせたりしないで、今こそインスタでもツイッターでも何でも存分に使って誘導して欲しい。

そしたら多分また、いつもいつもそうしてきたように、私もまだまだ修行が足りないなーって笑って、自分の矛盾を反省すると思うんだ。

夢の続きは見られなかったけど、嵐は私の青春でした。

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おーばーさいず 92 【A】






目を見ましたか?と、園長先生はおっしゃる。

たとえば話ができないとしても、向かい合うことが叶うなら目線を合わせてみましょう。

目の奥を覗くと見えてくるもの。

そこにあらわれる自我の確立と並行して深くなる色合いの何かに、私たちは気付くことがある。

この目に出会うたび思った。

感じやすい心を、守ってあげられる人になりたいと。


今夜帰らないはずだった私を玄関で迎え入れながら、高橋くんは何も聞かなかった。

少し驚いた顔をして、タクシー?金持ちじゃんと言って笑っただけだった。

部屋に直行して思う存分泣くつもりで帰って来たのに、彼の赤い目を見た途端そんな気持ちはかき消えてしまった。

何かあったのは、高橋くんの方だ。



優子「…映画やめたの?」

高橋「あー、うん。なんか面倒くさくなっちゃって(笑)部屋も片付けないと、木っ端だらけのままだしね」

優子「ラルフは?」

高橋「小野寺の部屋。あいつの新しいソファが相当気に入ったみたい」

優子「あっ、もしかして…」

高橋「ちくわも一緒」

優子「大変!また毛だらけにしちゃう」

高橋「平気平気。あとでコロコロしとけばいーよ。わざと開けっ放しにしてラルフとちくわを部屋におびき寄せてんだもん、あいつ」

優子「おびき寄せてる?(笑)」

高橋「隠れムツゴロウさんだからね」



そういえばムツゴロウさんて麻雀すごいらしいよ知ってた?なんて話を小声でしながら、高橋くんはやかんを火にかける。

何その情報、王国のイメージ崩壊するからやめてくれない?って言って、私は戸棚からココアの缶を取る。



優子「小野寺くん動物好きなのに、なんで飼わないんだろう?」

高橋「誓ったんだって。小学生の時に拾った犬がいたんだけど、何年か前に老衰で死んでさ。その時もう二度と動物は飼わないって決めたらしいよ」

優子「そっかぁ…」

高橋「聞いたことあるような話でしょ」

優子「…でも気持ちわかる。私も子どもの時、一生新しいお父さんはいらないって言ったの覚えてるもん」

高橋「それはまた…話が違くない?」

優子「まぁね(笑)」



あの時、お母さんはそうだねと言って笑って泣いて、弟は泣くなバカ姉と私の頭を叩いた。

お母さんの泣き顔は、あれっきり一度も見ていない。



高橋「…ねぇ、優子ちゃん」

優子「ん?」

高橋「本当の…素直なキモチを主張できるのは、子どもだけの特権だと思う?」

優子「うーん…まぁ、少なからずあるかもね。大人になればなるほど気持ちを抑え込むことが習慣化していくと思うし」

高橋「…大人が素直になれないのは、嘘つきになるからなの?」

優子「大人の場合は…勇気の問題なのかなぁ…」



今の私にその勇気があれば、きっと逃げ帰って来たりはしなかった。

高橋くんは、ゆっくりまばたきをして呟く。



高橋「勇気か。なんか…腑に落ちた。足りなかったのは勇気だって思ったら、全部わかった気がする…」



私は黙って言葉の続きを待った。

チャームポイントの可愛い涙袋がうっすら赤いから、なんだかやりきれない気持ちになった。



高橋「…あの人の見てる景色を見たいってね、なんの拠り所も無いのに日本を飛び出してったんだ。彼女」

優子「…イギリスだっけ?」

高橋「うん。今と違って彼がまだほとんど無名だった頃、たまたま知り合いの画廊で見つけて。彼女ね、夢中だった。寝ても覚めても彼の絵のことばっかり。こんな絵を描く人はどんな人だろう、何を見てる人だと思う?って(笑)」

優子「…」

高橋「行くな…って、言えなかった。帰って来いも、まだ言えてない。彼女には有って俺に無かったのは覚悟と、勇気だったんだよね」



彼の賢そうな目の奥には後悔と寂しさがあった。

取り返しのつかない寂しさが。



高橋「…わかってたんだけどねー、どっかで。彼女は天才だったし、俺は凡人で、この通りの意気地無し(笑)伝える勇気も持ってない」

優子「でも…思いやる心を持ってるじゃない。足りない勇気の代わりに、その分以上に高橋くんは優しさを持ってる」

高橋「…」

優子「いつも、どんな時も、高橋くんがお帰りって笑ってくれるとホッとするんだよ。あなたの優しさに、ここで夢を追うみんなが救われてるよ。それって結局は天才と同じだと思わない?」

高橋「…褒めすぎ(笑)」

優子「本当だよ。私だって高橋くんのこと…」

高橋「…」

優子「尊敬してる」

高橋「…俺も尊敬してるよ、優子先生」

優子「嘘つけー(笑)」

高橋「嘘じゃねーよ(笑)でもさ…」



夜のキッチンは静かで、やかんのシューシューいう音がよく響く。



高橋「さっき、優子ちゃんが俺のこと…」



コンロの火を止めながら、ふんわりと微笑む横顔。

この人は時々子どもみたいなのに、時々すごく大人らしくて…



高橋「もしかしたら、好きって言ってくれんのかなーって……ちょっと期待した俺がいたよね!(笑)」

優子「なに言ってんの(笑)人が真面目に話してる時に!」



こんな時に。

こんな時なのに。

なんで私は笑えるんだろう…



高橋「…さて。ちくわ捕獲しよっか?」

優子「そうだった、コロコロ!」



高橋くんに笑ってて欲しいと思った。

目の奥を覗き込んで、うっかり知ってしまった彼の寂しさを、どうすることもできないのが歯痒かった。

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甘美な韻律 87 【S】






魔法使いの髪は濡れていて、南国の果実のような匂いがした。



智恵「…寒くしてない?」



頑なに何も答えない私の背中を冷たい手が撫でる。

控えめに、滑るように。

どんな跡も残さない力で。

こんなふうにされるのは初めてなのに、思った通りだと感じてる。


彼女からかかってきた電話にすがりつくようにして出た後、不思議と手の震えは止まり、混乱を極めていたはずの心は勝手に整理整頓を始めた。

かけてくれた言葉は正直ひとつも覚えていないけど、緊張感のない声が怯えきった神経に心地良かった。

それはあの、薄ピンク色の泡を分け合った日の感じに似ていた。


タクシーで病院まで駆けつけてくれた智恵さんに未だお礼のひとつも言えないでいるのはきっと、彼女の濡れ髪から私の知らない香りがするから。

あの頃と違うシャンプーを使っている。

そんな呆れる程どうでもいいことが、今はえらく癇に障った。


手術室から出てきたハナさんはまだとても話が出来る状態では無かったけど、穏やかな顔で静かに息をしていた。

息をしているというだけで涙が溢れた。

大切な人が確かにそこにいて、生きていてくれる事実が、私の胸ぐらを掴んで揺さぶった。

途端に怖くなった。

こんなふうに取り乱してしまったことで自分の中の何かがまた一つ変わってしまった気がして、戻せない時間を悔いていた。


智恵さんはダンマリの私に見切りをつけたのか、羽織るもの持って来れば良かったねぇと独り言のように呟いている。

理解不能な感情を振り払いたい一心で彼女の細い肩に乗せたおでこをもっと強く押し付けたら、背中の冷たい手は二つに増えた。



智恵「あ…すみれさん」



顔を上げると、智恵さんに軽く会釈をしながら店長が待合室へ戻ってくる。

弾かれるように立ち上がった私を気遣って、くしゃくしゃの笑顔を見せた。



スー「ハナさんは…」

達也「ちょっと出血多かったから、今日はもうこのまま休ませた方がいいみたいなんだ」

スー「…そう…ですか」

達也「子どもも、小さめだけどね。大丈夫。もう大丈夫だってさ」



一気に力が抜けて、思わず智恵さんに寄りかかる。



達也「顔見てやってくれる?」

スー「……でも」

達也「今夜は保育器越しだけど、呼吸も落ち着いてるから」



どうしていいかわからず智恵さんの顔を見たら、いつの間にか繋いでいた手が軽い力で引かれた。

冷たい指につかまって廊下を進む。

足の裏にローラーがついてるみたいにスルスル進む。

夢の中みたいだと思った。



達也「ほら、見て…小さいだろ?」



生まれたての小さな人は、思ったよりずっと活発だった。

何かに驚いたように腕や脚をビクッとさせたり、口を開けたり。

時々見える黒い瞳が、私こう見えて本当はなんでも知ってるんですよと言ってる感じだ。

本当に何でも知ってるのかもしれない。



智恵「わぁ…可愛い」

達也「でしょでしょ?生まれたばっかでもうこんな美人だなんてさぁ」



小さい人は黒目を光らせると、口をむにゃむにゃ動かした。

見てて。

うちのパパ、今に言うから。

目が俺にそっくりなんだよってね。



達也「浮腫んでてわかりにくいけど、多分パッチリおメメじゃん?これは俺譲りだから。ほら、まんまじゃない?これ俺の目じゃない?」



ほらね。

チラリと小さな舌が覗く。



智恵「…どうしたの?(笑)」

達也「すみれチャン?なに笑ってんの?(笑)」



短い面会の終わりに、あたためて清潔にした手でほんの少し触れることが許可された。

遠慮すんなってと店長に掴まれた手が、みっともないくらいに震えた。



達也「光、すみれチャンだよ」

スー「ひかり…」

達也「希望の光。いい名前だろ?」



恐る恐る伸ばした私の指を、光は思いがけない力強さで握りしめた。

しっとりとした手のひらから、何かが流れ込んでくる。

それはあっという間に全身を巡って、胸の真ん中をポカポカと満たした。



智恵「爪、小さいね」

スー「…うん」

智恵「すごく、可愛いね」



可愛い。

小さくて、清潔で。

あたたかくて、柔らかくて…



スー「正しいです」

智恵「そうだねぇ」

達也「…なにが?(笑)」



今日の日が終わる最後、その小さな指を離す時。

光の瞳が私を捉え、印を付けたような気がした。

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想いの代償 83 【M】






「邪魔とは…また、えらく極端な表現だね」

松本「…」

「そこに美月の意思は無かったと言っているように聞こえるよ」

松本「…美月さんは、最後には中島くんと行くことを決めていました」

「確かに、そう聞いていたな」



あの頃のことは今でもよく思い出す。

済んだ話だと何度自分に言い聞かせても、決して消えはしない記憶。

彼女の幸せを願って、親友の決断を信じた。

美月の選択と、彼女を連れて行くと言ったあいつの想いの強さに譲った。

譲らなければならないと覚悟した。

見せかけだけの覚悟は、いとも簡単に綻んで崩れた。

思い出すたびに胸が苦しくなる、想いの痕跡。



松本「…気持ちを抑えることが出来ませんでした。諦められなかったんです。結局、中島くんが僕の我儘を身を引く形で聞き入れてくれました」

「そうして、美月もまた君を選んだ。何ら問題は無いように思えるがね。破談になった理由についても、元々あちらの親御さんは反対なさっていたからね。説得することが出来なかったと中島くんは言っていた」

松本「…」

「詳しい事情は彼からのその説明だけで、当人同士の気持ちなんかは聞かされていなかったけれどもね。美月も、もういい大人だ。親子とはいえ逐一詳細に報告する方がおかしいだろうから」

松本「ご両親に報告…と言いますか、紹介が出来ないような付き合いを彼女に強要したのも自分です」

「うーん…しかし、今日はそのことをわざわざ謝りに来たわけじゃないだろう」



当然のことながら違う。

忙しい合間を縫って、同じく忙しいこの人の時間を貰ってこの場を設けたのは、謝罪の為じゃない。



松本「……目を瞑ってください」

「…」

松本「僕が今後も美月さんの人生に関わり続けることに、目を瞑っていただけませんか」



ここまで失礼な初対面はそう無いと思うし、無謀だということもわかってる。

だけど他にどんなことが言えただろう。

正解には程遠かったとしても、これしか無かった。



松本「正直に言います。普通のお付き合いは出来ません。平凡な幸せは、今は見通しすら立ちません」

「…」

松本「それでも、僕たちの好きにさせていただきたいんです」



約束は何一つしていない。

結婚しようだとか、ずっと一緒にいようだとか。

付き合いがそれほど長くなくとも、その時々の気持ちの高ぶりで口にしてしまってもおかしくはない言葉たち。

そのどれもこれもが、俺には重かったから。

不確かな約束で美月をがんじがらめにすることは、どうしても出来なかった。

意気地なしだと言われればそうかもしれない。

無責任だと叩かれても文句は言えない。

それでも、俺には美月が必要なんだ。



「いやはや…」

松本「…」

「一分で済んだ」

松本「…?」

「もし君が美月さんとのお付き合いを許してくださいと言ったら、許すも許さないも無い、決めるのは娘だと応じただろうし、親として認めるかと問われたなら、私にはまだ判断材料が無いと答えただろう」

松本「…」

「目をつぶれ。最も手っ取り早い(笑)」



俺の失礼な物言いを咎めもせず、美月の父親は愉快そうに笑った。



「この場に美月を同席させなかったことも実に賢明だね。あの子がいたら、おそらく黙ってはいなかったんじゃないか?煩くて話にならない」

松本「後で怒られるのは覚悟の上です。許してもらえるかは…わかりませんけど」

「その時はその時だな(笑)」



丸い眼鏡を外して、人差し指と中指の関節で目頭を押さえる。

この仕草を俺は何度も見たことがある。

度のキツい眼鏡が恥ずかしいからと、眠る寸前までコンタクトレンズで頑張って、乾いた目を擦ってた。

美月が眼鏡の顔を見せてくれるようになったのは、まだここ一年位の話。



「もし、君と美月が後にこの件で軽く揉めた挙句、どうにか仲直りをしたとして。その時はまた私達に会いに来てくれるかい?」

松本「はい…!伺います」

「うちのが喜ぶよ。君の来るのが楽しみで仕方ないんだから」

松本「え…」

「本当は今日が三度目の正直なんだろう?私が留守の間に二度来てくれたね」

松本「ご存知だったんですか」

「自分が来たことは伝えないでくれと君は頼んだらしいが、頼む相手を間違えたよ。うちの奥さんは隠し事があまり上手くないんだ。念のためと思って、美月には伏せておくよう言っておいたけれどね。青白い顔で現れる君を、多忙の中ほとんど寝ずにここへ来ているんじゃないかと…それはそれは心配していた」

松本「…」

「近頃は特に私のスケジュールがはっきりしなくてね。だいぶ体調が落ち着いてきたのもあって、留守がちだったんだ。お父さん、松本さんが倒れてしまいます、後生だから家に居てくださいと、最後は泣かれたよ(笑)」

松本「僕の勝手で…すみませんでした」

「こちらこそ、何度も無駄足を踏ませてすまなかったね。今日はどうもありがとう。お会い出来て嬉しかったよ、松本くん」



『松本くん』

そう呼ばれて、力が抜けた。

張りつめていた緊張の糸が震えながら解けていく。

知らぬ間に強張っていた指先に血が通い出す。

もっと早くにこうしていれば良かったとは、何故か思わないんだ。

ずいぶん遠回りをして、たくさん間違えもした。

でも今だからここに居る。

今の自分まで辿り着いてやっと、ここに立つことが許されたんだと思うから。

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甘美な韻律 86 【S】






同時に処理できるタスクの数には限りがあり、状況次第ではその内の幾つかを後回しにしたり、捨て置く決断をしなければならないこともある。

肝要なのは迅速かつ的確な選択。

俺にとっての最優先事項は、この場合考えるまでもなかったってことか。



二宮「なんで連絡先交換してないんだろね」

櫻井「まさにそこだよな」



忙しなく相槌を打ちつつ、ニノの電話が繋がるのを待った。

今日の現場が一緒だったこと、5人の中で我々だけがたまたま待機中だったこと、色んな偶然が重なってこの機会を得たのだと思うと変に興奮した。



二宮「智恵?今大丈夫?」



ニノの声は限りなく優しい。

手短に用件を伝えると、俺に手でOKの合図を出す。



二宮「すぐ電話してあげて。これ切ったら番号送る…うん、ありがと。頼むわ」



通話が切れるタイミングですかさず送った椎名の連絡先を、ニノはスタジオに戻りながら鮮やかな手つきで彼女に転送した。



櫻井「やー…マジでありがとう…」

二宮「役に立つかどうかわかんないよ?(笑)」

櫻井「いやいやいや…」



気が抜けた勢いで椅子に倒れ込む。


椎名のSOSは、セットチェンジの間のほんの僅かな待ち時間に来た。

後でかけ直すと言うつもりだった俺にとって、切羽詰まった椎名の「助けて」は頭を鉄アレイでブン殴られたに等しい程の威力があった(んじゃなかろうか)

ここで最も重要なのは、この「助けて」が椎名の初めての「助けて」だったってことだ。

この先どんな困難があっても、たとえ命を狙われるような非日常的状況に陥っても、多分あいつは助けてと言わない。

さらに悲しいことに、間違っても俺にだけは助けを求めないっていう確信もあった。

だから…まぁ、震えたよね。

他の何事もこれに比べたら些末なことで最早比べる必要さえ無いくらいだと、本能が理性を引きずり下ろして諭した。

俺の手招きに気付いたニノの顔はさすがに警戒心を隠しきれておらず、申し訳ないと思うのと同時に、彼の並外れた勘の良さに感服したりもして。

そして思った通り、彼は協力してくれたのだ。

その上で一切何も聞かない。

これも思った通り。

無理やり中断させられたゲームの続きはやる気がしないのか、松本のリップシーンをモニターに釘付けで見ている。

俺たちが外に出ている間に撮影を終えた他の2人は、少し離れたところで甘い物をつついていた。



櫻井「…聞いてもいいかな」

二宮「うん?」

櫻井「彼女、ホントは何してる人?」

二宮「ホントはって…事務職だよ。ごく普通の」

櫻井「水道屋さんの」

二宮「そうね」

櫻井「と、見せかけて…?」

二宮「水道屋さんですよ(笑)」

櫻井「だよねぇ…」



訝る俺に笑いかけると、またモニターに目を向ける。

両手の親指で顎を支えて、素早くまばたきをしてる。



二宮「……手を繋いでたよ」

櫻井「…ん?」

二宮「翔くんとこに俺が智恵を迎えに行った時」

櫻井「あー、あったね」

二宮「二人して部屋の入り口にぼーっと突っ立ってて。俺が引っ剥がすまで、ガッチリ手ぇ繋いでたんだよね」

櫻井「ふーん…」

二宮「…」

櫻井「え、なんで?」

二宮「知らない(笑)」



なにその光景。

全然想像出来ない。



二宮「…まぁ、だから普通に友達なんじゃないの?友達に、なったんじゃない?」

櫻井「友達…」

二宮「うん」



椎名のたどたどしい説明で俺が理解出来たことは、華絵さんのお産が始まったということ。

それが予定外であったことと、今椎名は智恵さんと連絡を取りたいということ。

最後の一点だけが、どうしても解せなかった。

何故それが椎名の助けになるのか。

かなり緊迫した状況のように思えたから、尚更不可解だった。



櫻井「…趣味で占いかなんかやってる、とか?」

二宮「智恵が?無い無い絶対(笑)」

櫻井「いやさ、変に思わないで欲しいんだけどもね」

二宮「はいはい」

櫻井「彼女の、その…魔法がどうとか?言ってたんだよ。それってアレかな、何かの比喩…的な。思い当たる節あったりする?(笑)」



笑われるのを待った。

笑い飛ばされる覚悟で口にしたんだ。

そんな風に真面目な顔で、真剣な目つきで、熟考されるとは思いもよらず。



二宮「あるかもね」

櫻井「…魔法?」

二宮「うん。使いかねない」



整った横顔にツッコミを入れていいかどうかがわからない。

長い付き合いの中で、こんなにも置いていかれてる感を味わうのは初めてだった。



櫻井「…またかよって思うかもしんないけど、今回は本当…大丈夫だからさ」

二宮「うん」

櫻井「…」

二宮「わかってるよ」

櫻井「そうなの?」

二宮「だって、なんか嬉しそうだし」

櫻井「嬉しそう…俺?」



これ以上みんなから置いていかれないように、仕事が片付き次第椎名の元へ駆けつける為の最速の方法を考えたい。

なのに不謹慎な俺の頭ん中では初めて聞く泣き声の「翔くん」と「助けて」が、アホみたいにリフレインしまくっていた。

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甘美な韻律 85 【S】






神様を信じて救われる人はきっと、最初から救われると決まってる人だ。

優しい人。

正しい人。

あたたかい人。

誰かを、幸せに出来る人。


だから私は代わりに祈る。

優しさ故に自分のことを祈りそびれてしまってる人のところへ、救いの手が届きますように。

手を差し伸べる場所を、神様が間違えてしまいませんように。

それくらいならしてもいいはずだ。

神様を知らない私でも。



達也「すみれチャン、来てくれたんか!」

スー「店長…ハナさんは…」



自分の汗でひどく目がしみる。

息切れする私の肩を掴み座らせると、達也さんは頭を下げた。



達也「ごめん、みやびから連絡いったんだろ?」

スー「達也さんが一人じゃ…大変だろうからって」

達也「ありがとう、ありがとうな…」



本当は一人じゃ大変だろうからなんて言ってなかった。

一人じゃ心配だから、とても無理だと思うからって言ったんだ。

お姉ちゃんが用意していたハナさんの為の荷物を引っ掴んで駆けつけたけれど、代打で派遣されたのが私では正直どうしようもないと思う。

こんな時、何の役に立てるのか見当もつかない。



達也「今、診察中なんだよ。ご主人はここでお待ちくださいって言われて…まだそんな経ってない」

スー「…」

達也「電話してきたハナちゃんの声が普通じゃなくて…慌てて店閉めて帰ったんだ。たっくんどうしよう、お腹がカチカチで痛いの、どうしようどうしようって…俺も焦っちゃってさ」



両手で顔をゴシゴシしながら、まくし立てるように続ける。



達也「客も居たんだけど、追い返して。帰れ帰れ!つって。予定日までまだ4週間あんのに、なんで?嘘だろ!?ってもうパニックよ。手の震え止まんねーし、まぁよく事故らないで来れたと思うよね」



私も同じことを思った。

帰省先から連絡をくれた姉にパニックになった挙句食ってかかった私は、予定日なんてものはこっちが勝手に決めただけの"あくまで予定の日"でしかないの!と切り捨てられて、ものすごく理不尽な気持ちになったんだ。

一体何の為の予定日なのか、こんな不確定なものに命が翻弄されるのはどうしても納得がいかず、姉の説明は断片的にしか頭に入ってこなかった。

休みなく続くお腹の張りと痛みに違和感を感じたハナさんは店長と電話で話した後、最後の力を振り絞って入院セットを寝室から持ち出し、玄関で立ち上がれなくなったそうだ。

どんなに怖かっただろう。

それでも病院に連絡して指示を仰ぎ、痛みと不安に耐えながら店長の帰りを待った。



達也「帰ったらみやびと電話中でさ。ずっと励ましてくれてたみたいで。大声で何か色々言ってんのが、こっちまで聞こえてた」



お姉ちゃんはお義兄さんの実家に帰っていて、どんなに急いでもこっちに着くのは明日の朝になると言っていた。

頼れる身内がいないハナさんのお産を気にして、あえて日程を早めた帰省だった。

菫、頼んだよ!

しのごの言わせない姉の語気に私は何かを考える暇も無かった。

予定日に文句を言いたかったのは、本当はお姉ちゃんの方だったのかもしれない。



達也「陣痛って波があんだろ?両親学級も参加したし、一応高齢出産だし、これでも勉強したからね、ある程度はわかってるつもりでいたわけ。でもコレはなんか違う、なんか変だってハナちゃんも俺も…」



突然騒がしくなった院内の様子に店長は言葉を止めた。

オペ室空いてるよね?麻酔科の先生呼び戻しておいて…

目の前を飛び交う確認と指示。

店長はフラフラと立ち上がり、診察室のドアを見つめる。

ナースステーションの中は続々と集まった職員達でごった返していき、時間外で人気の無い外来に緊迫した空気が充満し始める。

駆け寄ってきた女性が、いくつかの書類を店長に手渡しながら言った。



「これから緊急帝王切開で赤ちゃんを取り上げます。全身麻酔になりますのでこちらにサインを…」

スー「全身麻酔…?なんで…」



呆然としたままの店長の手を取りペンを握らせると、強い口調で彼女は言う。



「一刻を争います。サイン、されますか?事後承諾になさいますか?」

達也「……なさいますって、なんだよ…?何を承諾すんだよ俺は…」



店長が声を震わせながら名前を書き殴る間も、周りはどんどん騒がしくなる。

診察室のドアが開いて、抱えられて出てきたハナさんがストレッチャーに横たわる。



達也「ハナちゃん!!」



手術着の様なものに身を包んだハナさんは、お腹を庇うみたいにして縮こまった。

真っ白な顔に大量の汗。

短い呼吸を繰り返しながら、うわごとのように店長を呼ぶ。

まともに言葉を交わすことも叶わず、店長は慌ただしく運ばれて行くストレッチャーを追った。

フラつく脚に力を入れて後に続こうとしたけれど、床を踏む感覚が虚ろで上手く歩けない。


どうしよう…どうすればいい?

私の中に神様はいない。

代打の祈りじゃとても足りない。

震える手を開いて、そこに答えを探した。

浮かんだのは魔法使いの顔だった。

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甘美な韻律 84 【S】






出来るだけのことはした。

最大限足掻いた。

胸を張ってそう言えるなら、おのずと諦めもつくはずだ。

現段階での俺が椎名にしてやれることなどたかが知れてるし。

格好つけるつもりは無いが、こっちもそれなりに多事多端なわけで。

そんな中でも可能な限り食い込んで、全体的にひっそりとではあるものの、俺は動いたんだ。

生半可な決意や覚悟では無かった。

自らの置かれた環境から鑑みるに、やれるだけのことはやったと言って差し支えないだろう。


だからもう、諦めていい。

忘れてもいいのだ。

忘れたいのなら。



大野「そろそろ帰ろうかな」

櫻井「あー…うん。だね」

大野「…どうかしたの?」

達也「お前はさっきから何をやってんだよ」

櫻井「いや、ちょっと…」

達也「ガサゴソガサゴソ、なんだ?探しもんか?」

櫻井「鍵がねーのよ(笑)」

達也「鍵?」

大野「…落としたとか」

櫻井「だとしたら音で気づくと思うんだけどねぇ…」



とはいえ念の為足もとを確認しつつ、椅子から降りる。

閉店と同時に落としていた客席側の照明がパッと点いた。



櫻井「あ、ありがとう」

達也「見えるかー?」

櫻井「見える見える」

大野「トイレの方見てくるよ」

櫻井「ありがとう、申し訳ない!」

大野「ついでだから」



カウンターの下には何も無かった。

個室とテーブル席の方には今夜近づいてもないが、一応確認する。



達也「車の鍵?」

櫻井「違う」

達也「家の鍵か。どんなやつよ」

櫻井「シルバーのキーホルダーがついてる」

達也「そんなの落ちてたら目立ちそうなもんだけどな…」



店長はほうきで床を総ナメにしながら、捜索に協力してくれた。

板張りのフロアはほんの少し埃っぽかったが、膝をつくのに躊躇する程ではなかった。



達也「無いなぁ…」

櫻井「すんません」

達也「もっかいカバンの中見てみろ」

櫻井「そうっすね…」



散々かき回した鞄に再び手を突っ込もうとする俺を店長が止める。



達也「全部出しちゃえよ、テーブル使っていいから。その方が早いって」



言うが早いか鞄を引ったくり、乱暴に中身を空けた。



櫻井「ちょっと!(笑)」

達也「物多くね?女子高生か」

櫻井「女子高生の鞄の中見たことあるんすか」

達也「は?お前今バカにしたろ」

櫻井「なんでそうなる…あーっストップ、それは触んないで!」

達也「なんだなんだ、ヤバいもんでも入ってんのか」

櫻井「いいから!返せっての(笑)」



店長は無駄にデカい体を盾にして薄いビニールの袋を覗き込むと、ジトっとした目で俺を振り返った。



達也「…タオルじゃん」

櫻井「そうだよ、ただのタオル。キレイに洗濯してあんだから、汚さないで貰えます?」



高く掲げたゴリラの腕っぷしに食らいつく俺と、よろけまいとムキになるゴリラ。

おじさん二人がじゃれ合う気持ちの悪い現場に戻った智くんが、酔っ払い特有の目付きで笑う。



大野「なぁにやってんの(笑)」

櫻井「ドロボーだよドロボー!」

達也「おま…袖引っ張んな!伸びちゃうだろが!」

櫻井「お巡りさーん、ここでーす!」

達也「声がでけーよ!ホントに来たらどうする(笑)」

大野「(笑)」



笑った拍子に緩んだ腕を素早く掴んでタオルを取り返す。

意外なほどすんなり戻って来たことで、大男の手の中でそれは随分と優しい力で摘まれていたんだとわかった。



櫻井「もー、こんな時間に汗かいちゃったじゃん…」

達也「必死過ぎだろ。たかがタオル一枚で」

櫻井「そっちが執拗いからでしょーが」

達也「ムキになりやがって。たかが、タオル一枚で」

櫻井「…」

達也「たかが、タオル、一枚で」

櫻井「わかったよ!(笑)」

大野「……ああ」

櫻井「やめて?その察したって顔やめて?」

大野「ごめん(笑)」

櫻井「違うからね。ずっと前に車に忘れてって返しそびれたやつで…」

達也「はいはいはい。わかったわかった(笑)」



その後も店中を探したけど、結局鍵は落ちていなかった。

心配してくれた二人には見つけたら知らせると言って別れた。

想定外の辱めを受けたせいで、俺は少しばかり冷静さを失っていたようだった。

代わりに返してもらおうと持って行ったタオルを、ご丁寧に持ち帰ってしまったことに帰宅後気づく。

ため息を飲み込み、うがいをして、風呂に入り、寝支度を整えて。

ベッドに潜り込んで枕の下に手をやった時、指先に触れた冷たい感触で全て思い出した。



櫻井「なーに…やってんだか(笑)」



わざと声に出した独り言は、圧倒的な静けさの中に吸い込まれる。


シルバーのイニシャルS。

もてあそぶ内に握り締めたまま眠ってしまった昨晩の自分を思い出して、もう一度笑おうして止めた。

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甘美な韻律 83 【S】






深夜、長い脚をソファに投げ出して姉は私の手からマグカップを受け取る。

私はソファの足もとに座って、黙って姉を見上げた。



雅「ありがと。はぁ…もう脚パンパン」

スー「…今日は良さそうな人来た?」

雅「全然だよ。日毎に若者達への偏見増すばかり(笑)いいかげん私抜きで進めてくれないと誰も採用出来ないと思うわ」

スー「でも都内の面接はお姉ちゃんに任されてるんでしょ?」

雅「任せてくれなくていいのにねぇ。正直向いてないし、こういうの」



姉の一日は忙しい。

家の事はもちろん、仕事、娘の送り迎え、同業者や友人達との会合。

立場上そこには様々な人間関係が存在し、それぞれの思惑が交差する。

私には姉の人生が複雑な網目模様みたく見える時がある。



スー「…必要とされてるんだね。会社でも家でも、お姉ちゃんは頼りになるから」

雅「頼られてるというか、いいように使われてるというか。まぁ…すべきことが無いよりは多少健康的なのかもしれないけどさ」



胸がチクッとした。

それは姉にも伝わって、優しい手が私の髪に触れた。



雅「菫、おばあちゃんの話をしてもいい?」

スー「…いいよ」

雅「一時期、お酒飲んでばっかりいたことあったでしょ、覚えてる?」

スー「うん。夕方になるとおばあちゃんが台所の椅子で寝てた」

雅「そうそう。すぐ体壊したから、ほんの一時だったけど…あの頃菫はまだ中学生だったのよね」



ちゃんと覚えてる。

Sashみたいなラベルの丸い瓶と、バカラのアルマニャックグラス。

はだけたままの着物の裾。

美しく整えられた爪。

うなじの白髪。

西陽を背に羽を広げた孔雀のような籐の椅子。

目が合うと悲しい顔をされるから、両親や姉が帰宅するまで台所へは行かないようにしてた。



雅「あの頃ね、おばあちゃんは私によく言ってたの。必要とされる人間になりなさいって。雅、必要とされる人にならなきゃいけない、価値のある人にならなきゃいけないよ…」



おばあちゃんの喋り方を思い出そうとして、少しだけ寂しくなる。

姉は私の髪を撫でながら穏やかに話し続けた。



雅「くたばれって思ってた。酒でドロっドロに濁った目ぇして、偉そうにお前なんかが私に説教タレんじゃねぇよ…って」

スー「…」

雅「もしかして、驚いたの?(笑)」

スー「うん…」

雅「頭の中で少なくとも100回は呪ってるわよ」



当たり前みたいに言って笑うから、何が何だかわからなくなる。



雅「あの過干渉、知ったかぶり、被害妄想。知れば知るほど虚しい気持ちにさせてくれる人だったなぁ」

スー「…」

雅「…ずっと謝りたかった。菫に」

スー「…私?」

雅「おじいちゃんに似てるってだけであの人に辛く当たられてた菫に、私は何もしてあげられなかったもんね」



あの人なんて言い方、おばあちゃんが聞いたらどう思うだろう。

お姉ちゃんはおばあちゃんのお気に入りの孫だった。

それにこれは絶対間違い無いけど、お姉ちゃんもおばあちゃんが大好きだったはずなんだ。



雅「菫に構わないでって言うとね、泣くの。あの人は泣いて、もうしないって言う。誰にも言わないでくれ、嫌いにならないで後生だからって、いつも」



姉の絞り出すような声を聞きながら、おばあちゃんでも泣いたりするんだなと思った。

私には想像もできないそんな姿を、もしあの頃見ていたら。

見てしまっていたなら、きっと壊れた。

大切な場所はバラバラに壊れ、姉の優しさに気づくことも無いまま、私は自分を可哀想だと思ったかも知れない。



雅「菫…ごめんね。本当に今さらだけど、ごめん」



謝るのはやめて欲しい。

姉のしたことは正しい。

寂しかったおばあちゃんの心を、身体の弱い母を、優し過ぎる父を、私の居場所を、守ってくれてたのは姉だ。

いつも庇ってくれた。

何でも教えてくれた。

お姉ちゃんがいなかったら、私は笑い方も知らなかった。



スー「お姉ちゃんが私のお姉ちゃんでよかった」



どう言えば伝わるのかわからず、ただ思ったことを口にした。

姉は泣きそうな顔で微笑むと、ソファから立ち上がる前に私の髪をもう一度だけ撫でて言った。



雅「…必要とされる人間になんて、なろうとしなくていい。人は何かになろうとしなくても価値があるのよ。そこにいてくれるだけで」



それだけでいいのよ、と。

ふと見上げた窓の外に、月は出ていなかった。

初めて人に自転車の乗り方を教えた日と同じ、曇ってるのに明るい夜だった。

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甘美な韻律 82 【S】






櫻井「で、なんとなく文通みたいになってると」

大野「うん」



ザラザラした紙の上を、小気味好い音を立てながらペンが走る。



達也「文通…で合ってんのか?文字じゃなくて絵だからね」

櫻井「絵だけ?文字は無いの?」

大野「無い」

櫻井「全く?」

大野「無い(笑)」

達也「だけどちゃーんと返事が来るんだよな?絵で」

櫻井「返事も絵なんだ(笑)」

達也「そ。でもこれがまた…」

櫻井「なに」

達也「すげぇんだわ。見事に全部ホラーなの」

櫻井「怖い絵が返ってくんの?」

達也「つーか、画伯にかかると何でもホラーになっちゃうから。手足の生えてる場所やら、顔のパーツやら、ことごとく位置がおかしいんだよ(笑)なんでここに毛が!?とか」

櫻井「なるほどなるほど。他人事とは思えないけれども」

達也「でも大ちゃん、流石でさぁ。パッと見てすぐわかんだよね。素人には何の絵か説明されてもピンとこねぇくらいの仕上がりなのに」

大野「そこまで酷くないよ(笑)…出来た」

櫻井・達也「おお…!」



それとなく見守っていた俺たちは揃って感嘆の声を上げた。

本来グラスの水滴を吸収するだけの紙に、命が吹き込まれた瞬間だ。


店長はうやうやしい態度でコースターを受け取ると、すぐさまレジにしまいこんだ。



櫻井「…でも、バッティングの可能性は無いの?ここで会っちゃったら成立しないわけでしょ、文通だから」

達也「平気平気、若葉は昼間しか来ないんだよ。大ちゃんは閉店間際のオトコだしね」

大野「うん」

櫻井「敢えて、のことなのね?」

大野「いや?うん…まぁ…自然にそうなってるのかも」



ふーむ。

その状態は果たしてどんなものなんだろう。

互いを想い合う感情が、紙の上だけを行き来する距離。

近くも遠くもない距離…



大野「翔くんはまだ行ってないんだって?」



距離に思いを馳せていたので反応が遅れた。

気づけば、二人が俺の顔を見ている。



櫻井「…ごめん、なに?」

大野「スージーの店。まだ行ってないんでしょ」

櫻井「あぁ…うん、そうそう。行ってないの」

達也「意地張っちゃってな?」

櫻井「張ってないですぅ」

大野「なんで?」

櫻井「なんでって…なんで?(笑)」

大野「心配で、すぐ見に行くのかと思った」

達也「だよな?俺なんてすぐ行ったもん。すぐよ、すぐ。もう速攻で」

大野「会えたの?」

達也「うん…ん?」

大野「?」

達也「…ああ、厨房じゃないから。ホールに出てるんだよ。ホール…って言わねぇか。お座敷?」

大野「そうなんだ。え、なんか意外」

達也「なー?俺も最初めちゃくちゃ不安だったんだけどさ」

櫻井「何が不安なのよ(笑)子供じゃあるまいし」

達也「そりゃお前、色々あるだろうが」

大野「色々って?」

達也「……色々は…色々!」



なんだそれと笑いながら、早くこの話が終わればいいのにと思った。

早く、時が過ぎればいい。

最近は気づくとそればかり願ってる。


お前のしたいようにしろと言っておきながら、俺は準備していた。

いつ、どのタイミングであっても、椎名を受け止める気でいた。

いずれ必ずそうなるだろう、結論が出るまでの時間もさほどかからないはずだと突き放したあの時、半ば確信していたからだ。


椎名が選んだ道は、俺の期待したのとは真逆の道だった。



達也「ほんとはもうちょい足繁く通いたいんだけどさ。俺みたいな庶民には価格設定が怖すぎるのよ。なんたってみやびの店だからね」

大野「スージーの姉ちゃんか」

達也「うん。正確には、みやびの旦那の店だけど。数多ある商売の内のひとつね」



数多という部分を大げさに強調しつつ、達也さんは両手で指折り数えるジェスチャーをした。



大野「それ聞いてから俺、どこ行ってもそのこと思い出す。ここもそうか?って、警戒しちゃう(笑)」

達也「わからんでもない(笑)でもここは真っ当な店だし、よかったら今度大ちゃんも顔出してやってよ。ノドグロの煮付けヤバくてね…あとほら、これなんかも」

大野「へー」



楽しげにタブレットを覗き込む二人を眺めながら、グラスの下でふやけたコースターを何の気なしに手に取った。

水滴が染みて色の変わった部分が汚らしく弛んで、笑ってる顔に見えた。


椎名が選んだ道の先にはどんな未来が待っているだろう。

あいつの叶えたい願いが、大切な人が、ほんの少し手を伸ばすだけで届く距離にあればいい。

そうでなければならないと思う。



大野「…翔くんも描く?」

達也「お、新しいの出そうか」

櫻井「遠慮しとく(笑)」



自分に絵心が無い事と縮まらない距離に因果関係などあるわけがないのに、そのせいにしなければあまりに悲しくて、投げやりに手を振って断った。


椎名の選んだ道の先に、俺はいないということ。

この事実を受け入れる為には、あとどれ位の時が要るだろうか。

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おーばーさいず 91 【A】






ゆうちゃんは痛いとヤメテを合わせて100回は言ったんじゃないかな。

夢中で腰を押しつけながら、聞こえてないフリをした。


自分に自信が無いゆうちゃんを、俺は変えられると思ってた。

俺の気持ちが伝われば、いつかは…って。

でも実際はどんなに仲良くなっても、どんなに思い出を作っても、ゆうちゃんは変わらなかった。

安心させたくてしてきたことはことごとく空振りで、俺はいつも焦ってた。


だけどさ、それも仕方ないのかなって思ってたよ。

ゆうちゃんの人生に俺を迎え入れることは、並大抵の覚悟じゃないってわかるから。

信じるって口で言うのは簡単だけど、本当は難しい。

ゆうちゃんにとっては特にそうだと思う。

付き合いたての頃も…俺が浮気してからは、もっと。

あの時、別れていればよかったのかな?

やっぱり無理があったんだって早々にケリつけて、忘れられたらよかったのかな?

ゆうちゃんはそうしたがってたのに、諦めたくなかったのは俺の勝手で。

君を引きずり込んだ責任はちゃんと自覚してるんだ、これでも。



優子「いや…やめて!」



所構わず殴りつけてくる手を無視して、逃げようともがく腰を持ち上げる。

苦痛のあまり叫び声をあげるゆうちゃんを俺は見てる。

ただ、見てる。



優子「痛いの…」

相葉「…」

優子「雅紀くん…っ」



頭がぐるぐるする。

どうして伝わらないんだろう。


お願いだよ、ゆうちゃん。

君は俺の好きな子だよ。

俺が見つけた、世界でたった一人の。

難しいことは言ってないでしょ?

俺の好きな子を悪く言わないで欲しいだけだよ。

それだけの話。


どうして伝わらないんだ?

ムカついて、悲しくて…

泣きそうだ。



優子「こんな、の…きらい」

相葉「…」

優子「大っ嫌い!い…やぁ…っ」



大嫌いとかさ。

いつもいつもそうやって、ゆうちゃんは簡単に言うけど。

何も感じなかったわけじゃないよ。

俺だって傷ついてたよ。

それでもしょうがないって思ってたよ。

だって、大好きだから。



優子「ね…ごめんね…」

相葉「…」

優子「…私が悪かった…の」

相葉「…」

優子「雅紀くんの気持ち…考えないで」

相葉「…喋ってると舌噛むよ」

優子「っ…なんで、あぁっ…いや…!」



こんなことしちゃいけないってわかってる。

だからなるべく痛みを感じなくて済むように、ゆうちゃんの好きなとこも触ってあげてる。

そうすれば痛いのは最初だけで、あとはだんだん馴染んでくるからって…

誰から聞いたのかな?

どうでもいいか。

その時ね、男ってホント最低な生き物だなと思ったんだよ俺。



優子「まさき…くん……こんなの…ダメ…」



まぁ、そうだよね。

長いことお許しメーターと付き合ってきた俺だから、わかってるよ。

後々めんどくせぇことになるんだろ。


後先?

後悔?

もういいよ。

もう、いい。



優子「…イヤ……痛い…痛いの…」



こめかみのとこの髪の毛がビチャビチャになるくらい泣いて、泣いて泣いて、泣きすぎて枯れた声も手首の内出血も震える胸も動くナカも、可愛くてたまんない。



優子「イタ…い……ねぇお願いっ…怖い…んんー!」



怖い。

ゆうちゃんの口を塞いだ自分の手が変な色で怖い。

見たことない色してて、怖い。



優子「んんー…んっ…!」



いつもは絶対に爪を立てない小さな手が俺の腕を掻き毟る。

微かな痛みは、すぐ快感に変わる。

ガクガク震えだした右の太ももをガッチリ抱えて大きく打ちつけた。



優子「んぅっ…!」



ねぇ、もういい加減諦めてくんないかな?

乱暴にしたくない。



相葉「ゆうちゃん…」



こんなこと、俺だって早くやめたい。

絶対どうかしてるって。



相葉「ゆうちゃん…ゆうちゃん…」



すごく可愛いよ。



相葉「はぁ…っ」



まだわかんない?

こんなに…



相葉「好き…だよ…」



グッタリしたゆうちゃんをいつまで責め続けてたのか記憶に無い。

気がついた時には俺は一人で、窓の向こうはまだ真っ暗で。

置き手紙も、ゆうちゃんが居た形跡も、何も無かった。

硬い床の上に寝たせいで軋む体を起こしたら、肩にかけられていた毛布が落ちた。

俺に毛布をかけて、起こさないように、静かに帰り支度をするゆうちゃんを思い浮かべた。

部屋を出て行く小さい後ろ姿を思い浮かべた。


普通に息をするのも難しいくらいの、ものすごい重量の後悔の波が押し寄せてくる。

とてもじゃないけど堪えられる気がしなくて、這いつくばりながら立ち上がろうとしたら咳が止まらなくなった。

危うく吐きそうになる。

何度も何度もえづく。

苦しくて、喘ぐのをやめられない。

膝が擦り剥けてて痛い。

自分のうめき声を聞きながら、目を閉じてうずくまる。


ぐちゃぐちゃの泣き顔。

少しずつ虚ろになる目。

白い体についた、たくさんの内出血の跡。

俺がしたことだ。

全部。

そうだよ、今さらだよ。

もういいって思っただろ?

もういいや、知らないって。

だって悪いのは…

悪いのは…


浮気したことを許してもらおうとして必死になる俺を、どう思ってた?

自業自得。

いい気味。

当然の報い。

許されたと思うのかって?

この程度で…って?

冗談じゃない。

もっと、もっと、もっと…

無様に媚びればいいのに……?


咳がぶり返す。

肺が痛い。

悪いのは俺だよ。

ごめんねって言いたいけど、わからないよ。

君が笑って許してくれるごめんって、一体どんなのだったっけ…

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